トマトジュースが甘い理由 (劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト)
はじめまして。
タイトルの通りです。
今回は「皆殺しのレヴュー」のお話。
この「皆殺しのレヴュー」、この後ワイルドスクリーンバロックがいくつか行われる大きなきっかけとなる最重要場面であるにもかかわらず、このレヴューを開催した大場なながかなり解釈しづらい台詞回しをしているため(これは狙った演出でもあるが)、このレヴュー自体の意図が汲み取りづらくなっています。
そんな訳で「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」全体の理解を深めるために、自分の言葉で「皆殺しのレヴュー」を解釈しようと書き始めたのがこの文章です。
ーーーーーネタバレーーーーー
トマトと舞台と現実
まず、タイトルにもした「トマトジュース」とは、大場ななが舞台装置の血糊として利用した赤い液体のことです。実際には明言されてはいませんが、恐らくは間違いないでしょう。
大場ななが全員と剣を交えた後、血飛沫の演出として真っ赤な液体を浴びせかけ、倒れた花柳香子がそれを口にして「甘い」とつぶやきます。
劇場版ではトマトがたびたび登場します。
作中、ワイルドスクリーンバロックへ望む覚悟を決めた舞台少女たちは、トマトに齧り付くことでその意思表示をします。
つまり、トマトが象徴するものとは、これから彼女たちに待ち受ける「舞台」、そして、この舞台への「渇望」です。この舞台というのは単にステージのことを言っているのではなく、これまでキリンが主催したオーディションと対比した概念としての「舞台」です。
これは、大場ななが「皆殺しのレヴュー」で執拗に言っていた、「これはオーディションにあらず」「ここはもう、舞台の上」といった台詞にも掛かってきます。
トマトという概念は、
トマト = 舞台(⇔オーディション)= 「ワイルド」スクリーンバロック = 野生
と、連想ゲーム的に広がっていき、「食うか食われるか、生きるか死ぬかの厳しい現実」と繋がります。
すなわち、トマトジュースが「甘い」のは、このような意識が全く足りておらず甘い覚悟だった花柳香子たちを巡る血液を示しているからであり、
反対に大場なながこのレヴューで伝えたかったことをざっくり要約すると、「学生気分の抜けてないファン目線の甘ちゃんのままだと、誰かに食われて終わっちゃうよ。」となるわけです。
でも、本当にそれだけでしょうか。
血糊としてのトマトジュース
極端な話、たとえ本当に切ったとしても、レヴュー内であれば現実に死ぬことはなかったはずです。
大場ななは、なぜ殺したふりに留め、実際に彼女たちを切り捨てなかったのでしょうか?なぜ血糊という舞台装置を使い、リアルな血を見せなかったのでしょうか?
これはひとえに、大場ななが「皆殺しのレヴュー」を始めたのは他の99期生への失望、怒りが理由ではなく、優しさ、思いやりが理由だからということに他なりません。誰かさんを除いて
他の99期生を傷つけるつもりは毛頭なく、舞台少女としての死を見せつけ、厳しい現実の象徴であるトマトを彼女たちに浴びせかけることで、彼女たちの将来のために警鐘を鳴らすためのレヴューだった。
だからこそ、血を舞台装置で代替した血糊は大場ななの思いやりの象徴であり、「甘い」のです。
大場ななが99期生に与える甘いものとして、他に手作りのお菓子が連想されると思います。
「皆殺しのレヴュー」の後に描写された愛城華恋との会話の中で、大場ななは99期生の飢えを満たすために与えていたというような発言をしていました。
この「飢え」いうのは、上で示したトマトのイメージである「舞台への渇望」と重なります。
つまり、大場ななにとってこの「皆殺しのレヴュー」はお菓子を与える行為の延長線上にあり、ショッキングな映像とは裏腹に、あの時の大場ななはいつものような「みんなの大場なな」を演じていたといえます。いや、ほんと誰かさんが地雷踏まなきゃね…
ただ一人の例外
さて、これまでも何度か触れましたが、この99期生の中に一人だけ大場ななが明確に怒りを向けている人間がいますね。もう殺意とまで言っていいでしょう。
同級生に「観客気分なら出て行って」と言ってしまうような美しかった彼女は、今は今はと言い訳を重ね、舞台から降りようとしています。
「ここはもう、舞台の上」というヒントを与え、「なんだか強いお酒を飲んだみたい」と自分と他の99期生との舞台への温度差を気づかせようとしたのに、あろうことか「私たちまだ未成年じゃない」とつまらなすぎるセリフで返されました。
そりゃあもう必死にもなりますよ。他の子は「皆殺しのレヴュー」で殺そうともしなかったのに、「狩りのレヴュー」で彼女に明確な死を突き付けるくらいには。
「皆殺しのレヴュー」でのあの気迫と、舞台少女の死を偽装にとどめた甘さとのズレは、ここにあるんじゃないかと思います。
今回のまとめ
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なぜかわからないけど、気づいたら結局前回の記事と同じ、純那とななの関係の異質さ、というかななが純那に向ける感情の異常な大きさ、深さ、濃厚さ、みたいなところに着地してしまいました。
⇓前回の記事
hisui-tsuyuyu.hatenablog.com
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アニメの大場ななも凄かったけど、劇場版の衝撃は本当に桁違いだからどうしても話題が引っ張られちゃう。
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私がこの映画は遊園地のアトラクションだ!って言い続けてるのも大体この人のせい。
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アニメの話でまた何か書いてもいいんだけど11話12話が解釈しづら過ぎてうまくまとめられる気がしない…
現実と地下劇場と戯曲スタァライトの関係とか「星摘み/星積み/星罪」のトリプルミーニングとか
おわり。
何とか劇場に滑り込んで2回目のスタァライトしてきた
はじめまして。
タイトルの通りです。
劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト、本日(投稿遅くて昨日だけど)2回目の鑑賞をしてまいりました。
あまり同じ作品を上映期間中に何度も観るという経験はなかったのですが、この作品はどうしてももう一度見たくて、少し足を延ばしちゃいました。
本当に大正解でした。初見では拾いきれなかった情報、全体を知った上での新発見、さらにこの作品に対する解像度が上がった気がします。
今回はそのうちの一つを文章にしてみます。
深い考察とかするわけでもなく、ただふと気づいたことを整理して書くだけの記事です。
ーーーーー 一応ネタバレ注意です ーーーーー
さて、この作品における大きなテーマは何か、と問われると「卒業」が最も適当かと思います。
99期生の学園からの「卒業」、およびそれを踏まえた進路の話
学園時代の人間関係からの「卒業」と新たな形での関係の構築
愛城華恋という人間の、「少女☆歌劇レヴュースタァライト」からの「卒業」
といった具合に、複数の次元において「卒業」というテーマが関わってきます。
そして、この中でも私がわざとらしく太字にした新たな形での関係の構築は、この作品においてほとんどの場合「ライバル」とくくれる関係で表されます。
怨みのレヴュー
→後ろから追うだけでなくライバルでありたいと願う双葉と、腹の中ではそれを認めつつも素直に受け入れられない香子
競演のレヴュー
→華恋のキラメキに目を奪われることを恐れたひかりと、ひかりに共感し本音で語りたいと願ったまひる
狩りのレヴュー
→
魂のレヴュー
→真矢の自分へのライバル心を含めた熱い感情を呼び起こさせるクロと、それに応える真矢
最後のセリフ
→今まで運命を共にすると誓っていた相手に、「悔しい」「負けたくない」というセリフを言う華恋とひかり
上にも書いたように、ワイルドスクリーンバロックで行われたのは新たな関係の構築ですが、「狩りのレヴュー」だけはお互いに全く逆の方向を向いているような印象を受けます。レヴュー開始時には、ななは過去を純那は未来を見ており、レヴュー後は二人はポジションゼロを中心に、真逆の舞台へ歩き出します。
「卒業」というよりもさらに強い「決別」という言葉のほうがしっくりきます。
道を違えたという点で共通している香子と双葉についても、明確な形としてのバイク、そして帰る場所の象徴としてポジションゼロのキーがあり、別れの意味が全く異なります。
つまり「狩りのレヴュー」、というか純那とななの関係性は、ほかの99期生と比較してもかなり異質であると言えるでしょう。
アニメで再演後に純那に言葉をねだるシーンといい、今回の「狩りのレヴュー」といい、ななが純那に理想を押し付けがちということが大きいのでしょうか。
決して相性が悪いわけではないんでしょうけどね。このレヴューを通して二人は進路を考え直し、新たな舞台を見つけようとしているわけですし。
まあ、各々が自分の星を見つけ、再開して新たな関係の構築がなされる日もそんなに遠くはないでしょう。
それが舞台でのライバルであれ、演者と裏方という形であれ。
今回のまとめ
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一番好きなキャラ:大場なな
もう一回劇場で観たいと思った100の理由のうち、30個くらいが「皆殺しのレヴュー」でもう30個が「狩りのレヴュー」でした。
映画でももっとハスキーな感じ押し出してもよかったよ? -
一番好きな曲:RE:CREATE
冒頭の爆発からの口上もいいけど、劇場版観てから「会いたかったよ、君にずっと」のところで泣きそうになっちゃう。 -
一番好きな言葉:「天堂真矢には悪魔を。西條クロディーヌには八重歯を」
言ってた気がする。とりあえず、クロに八重歯取り付けようって言いだした人は早く人間国宝にでもなってください。天才すぎるので。
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本文中では呼び名はわかりやすいものにしていますが、私は普段、天堂真矢→真矢様、西條クロディーヌ→クロ子、大場なな→大場ななで呼んでいます。大場ななは大場ななです。
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この話の最重要ポイント「皆殺しのレヴュー」でも今度何か書いておきたい!!
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一度この作品を観て少しでも気に入っているのなら、是非もう一度見に行ってください。かなり見え方が変わると思います。ただもう上映館がね・・・
おわり。
「ルックバック」の内容が一部修正されたらしいので何か書きたいなと思いました
はじめまして。
タイトルの通りです。
まず大前提として
私は今回の修正によって「ルックバック」という作品の主題が損なわれることはないと考えています。
この作品の最も大きなメッセージは「創作物の意義」と「藤野(藤本タツキ)にとって漫画を描くこととは」という部分で、京アニ事件を思わせる描写はあくまでエッセンスの部分にすぎません。
このことは、作中で犯人の掘り下げがほとんど皆無だったこと、話の中で”起こってしまった理不尽”それ以上の描写もそれ以下の描写もないことからもわかると思います。
「世の中いろいろ理不尽なことがあるし、漫画でそのすべてを癒し正すことなんてできるわけないけど、それでも何か変えられると信じて描き続けるよ。」
物語を通して藤本先生にそう言われた気がしました。
だから「ルックバック」では過去にタイムリープして未来を変えることはできないし、それでも藤野は最後に立ち上がって歩き出すわけです。
ただ、それでも藤本先生がある程度批判が予想される中でこの京アニ事件を取り扱ったのは、やはり藤本先生のなかであの事件が大きなものだったということでしょう。藤本先生は以前からインタビュー等で京アニ作品のファンであることをおっしゃっていましたし。
この作品がここまで話題になったのも、この部分が共感を呼んだというところも大きかったと思います。
創作物の意義って?
今回の修正において配慮されたのは、おそらく具体的な京アニ事件というよりは精神病患者の描き方という部分でしょう。
私自身が読んだときはそのようなことは感じなかったし、問題になってからも、かなり舞台装置的な描かれ方をされていて現実の患者に結び付けられることはないんじゃないかと感じています。
ただ、私は精神病に理解がある立場では到底ありませんので、これはあくまで藤本タツキファンの偏見が入った意見という域を出ることはないと思います。
しかし、今回一部の読者の声で創作物に変更が加えられたのは事実です。
「ルックバック」の場合は主題から大きく外れることがないため修正されたのかもしれませんが、今後このような事例が増えて漫画、映画、アニメなどの表現が狭まってしまうのは寂しいです。
「ルックバック」も、公開後すぐに京アニ事件を扱ったことが波乱を呼んでいました。
私は、実際の事件を創作の中で扱い問い直すということは、とても重要、というか創作作品の中でしかできないようなこともあると思っています。ドキュメンタリーとはまた違った視点で見つめなおすというのは創作ならではでしょう。
では、何をやってもいいかと言われると、それはもちろん違うと断言します。「ルックバック」でも、京アニ事件を扱うには時期が早すぎるという意見は相応の説得力があったと思います。
[悲報]着地点が見つからない
どうしよう。
とにかく一番言いたいことは、こういった創作の両面を理解したうえで、創作を肯定する側も、批判する側も、もちろん世に出す側ももっと冷静になろうよってことです。
「ルックバック」のSNSでの広まり方を見ていてものすごくそれを感じました。
物語を深読みしすぎず、裏のメッセージにこだわりすぎず、もっと正面から受け止めようよ。藤本先生がこんなにも真っ直ぐな作品を世に出してくれたんだから。
私たちの「ルックバック」はこれくらいの変更で凡作になんてなったりしない!むしろもう一度冷静に読み返す機会をくれてありがとう!!
今回のまとめ
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ルックバックをもう一度読もう。チェンソーマンを読もう。ファイアパンチも読もう。
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っていうか藤本タツキ短編全集いつ出ます?何としてでも手に入れるんだけど。
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実際の事件を取り上げたってなると「輪るピングドラム」を思い出しますよね。チェンソーマンも影響受けてそうだし。あのアニメも考察しがいあるしいつか書く日が来るかも。
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こうして文章にしてると観たい作品いっぱい出てきて幸せハッピー
そんな感じです。私はもう一度ルックバックしてきます。
おわり。
劇場版「傷物語」を久々に観返したのでメモしておく
はじめまして。
タイトルの通りです。
ただの記録なので見やすさ読みやすさ無視の走り書きです。
これは、阿良々木暦の
「自分勝手な自己保身のための自己犠牲」
の話。
阿良々木はお人好しで人助けをするのではない。すべては自分のためである。
責任を負いたくないから決断ができない。助けないという判断を下すことができない。
誰かを犠牲に、見殺しにしたという事実が今後一生付きまとうくらいなら、自己犠牲に”逃げる”。
この話の中では「今後一生」といった表現がよく出てくる。それ自体はよく使われる表現だが、吸血鬼を前にしたとき、この言葉の重みは計り知れないものとなる。
そして、最後に阿良々木は「自己保身ための自己犠牲」から生じた問題に対する清算を迫られる。
傷物語における二人のヒロイン、キスショットと羽川翼も自己犠牲を受け入れる。キスショットは「死」を、羽川は「性的な行為」を。
阿良々木のために。
阿良々木は羽川の自己犠牲から逃げた。なぜなら、阿良々木の行動原理はあくまで自己保身であるから。羽川に対する行為の責任をとれないから。
しかし、キスショットのときはそうはいかない。
決断して彼女を殺すか、決断せず数多くの無関係な人間を見殺しにするか選ばなければいけない。自己犠牲に対する責任をとらなければならない。
「出てこい。忍野メメ。」「なんとかしてくれ。」ここでも阿良々木は逃げようとする。
「自分の問題だろ。」忍野はそれを良しとしない。
結局、阿良々木は自身もキスショットも不幸にすることを選んだ。
自己保身のために、自分とキスショットの願いを犠牲にしてキスショットの命を助けた。自分勝手な自己犠牲。
この物語は、阿良々木の「自分勝手な自己保身のための自己犠牲」で始まって「自分勝手な自己保身のための自己犠牲」で終わり、バットエンドで幕を閉じる。
しかし、阿良々木は「今後一生」キスショットに対して責任をとることになるだろう。今回はあくまで責任を保留したに過ぎないのだから。
今回のまとめ
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チェンソーマンを読み返していたときに、最後の殴り合いシーンが阿良々木とキスショットの殴り合いシーンじゃんって思って観返したくなった。
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チェンソーマンもいずれ何か書いてみたいな。2部の前に何か。
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シャフトつながりでまどマギも観たい。映画もやるらしいしね。
半分寝てた状態の初見「ハウルの動く城」感想
はじめまして。初投稿です。
タイトルの通りです。
1ヶ月くらい前に「ハウルの動く城」を見たので忘れないうちに感想を書いておきたいなと思った次第です。
ただ時間が経ってて記憶がもうあやふやな上、酔っていて半分寝ており終盤に至っては断片的な映像しか覚えていないという始末。
まあ、なら逆に印象深いシーンが抽出精製されてるんじゃないかってことで開き直って書いていきます。
まず感じたのが映像のクオリティー高いなあということ。
魔法の細やかな仕掛け、キャラクターの動き、料理、風、雨、雲。ハウルの城が動く様子なんかは、機械のごちゃごちゃ感やらスチームの音やら、観ているだけで気持ちいい要素満載でした。
この辺の表現はジブリの十八番なんでしょうかね?ジブリはあまり見てこなかったのですが、以前見た「もののけ姫」の製鉄のシーンでも同じような感想を抱いた覚えがあります。
映像で一番印象に残っているのは、消えそうになっているカルシファーが木にしがみついているシーン。絶対アニメーターさんが実際に消えかかっている火を見て「なんか必死にしがみついてるみたいでかわいいな」とか言って思いついてますよねこれ。発想力というか想像力というか、遊び心に溢れてるなあと感じたシーンでした。
内容の話をすると、やはりソフィーがかけられた魔法に施された仕掛けが秀逸です。
当初は「老婆になる呪い」と説明されていましたが、おそらく「彼女が自分自身をどう見ているか、それを映す鏡」のようなもので間違いないでしょう。(この設定が荒野の魔女由来なのか、ハウルなのか、はたまたソフィーなのか、もう全く覚えていないのですが)
序盤のソフィーは自分がどうしたいのか、どうなりたいのか決められず、妹にすら「自分のことは自分で決めなきゃ。」と言われてしまうほどでした。しかし、ハウルやその家族と生活を共にするにつれ、自分の居場所を見つけ、容姿も大きく変わっていきます。
この設定で一番面白いのは、見た目の変化が老婆から若い姿への一方通行ではなくソフィーの心情に応じて行ったり来たりするところですよね。まさしく鏡のようです。
大きく変化した生活の中で主人公が自信をつけてやりたいことを見つけていく、「自分探しの旅」のようなストーリーは王道中の王道ですが、その中でもこの主人公の見た目で心情を視覚的に直接訴える演出はかなり印象的だなあと。
今回のまとめ
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一応これが初の投稿なのにこんな曖昧な記憶だけで書いていいのか私。
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ちらっと触れたけど、ジブリとは無縁のまま生きてきたのでもっと観てみたいなと思います。有名どころの「千と千尋の神隠し」「となりのトトロ」か。私の周りで妙に評判がいい「風立ちぬ」か。
おわり。